本書は James D. Murray, Mathematical Biology I: An Introduction, 2002 の全訳である。
原著は複雑な生物システムに向けて数学モデルから解明するという数理生物学を多くの例を交えて書かれた書物である。既にポーランドやロシア等で翻訳されていることから,今や世界的に良く知られた数理生物学のバイブルである。著者であるJames D. Murray氏は医学,心理学,生態学,疫学,発生生物学等,数理生物学の様々な分野において,実験家との共同研究を通して,モデルを構築し,その解析から,機構の解明,予測を行ってきた現在の数理生物学の確立に貢献する偉大な研究者の1人である。さらに,彼は一般向けの科学雑誌である Scientific American に掲載された "How the Leopard gets its spot"(その和訳は日経サイエンス1988年5月号において「ヒョウの斑点はどのように決まるか」で紹介されている)や米国数学会月刊誌に掲載された "Why are there no 3-headed monsters? Mathematical modeling in biology" 等に執筆していることからわかるように,数理生物学の世界だけではなく,数学・数理科学がいかに生物学に貢献しているかという学際的な視点から情熱を注いでいる研究者である。現在は,プリンストン大学応用・計算数学教室の上級研究者として活躍している。
原著が誕生した原点は,1977年に出版した Lectures on Nonlinear Differential Equations Model in Biology であろう。この書物はかなり数学に重点をおいて書かれており,それにモデルの重要性を込めて描かれたのが,1989年に出版された Mathematical Biology である。そしてこの書をさらに洗練するとともに,最新の結果を加えて,2002年に Mathematical Biology が2冊に分けて出版されたのである。本書はその第1分冊である。
私とMurray氏の出会いは,彼が1975年国立清華大学(台湾)に客員教授として滞在中,日本に1週間程訪れ,その機会に京都大学理学部生物物理学教室での講演をしたときであった。彼は講演の中で,本書の第8章に解説しているベロウソフ―ジャボチンスキー振動反応を紹介し,化学反応から現れる振動が我々の体内に持っている振動機能といかに関係があるのかをモデルを使って説明したのである。数学の世界にいた私はそのとき初めて数理生物学に触れたのであった。数学への新たな期待,そしてその新鮮さに魅了され,彼のもとでどうしても数理生物学を学びたいと手紙を出し,その翌年,彼のいたオックスフォード大学数学研究所に渡ったのである。当時,彼を中心とする数理生物学グループはそれほど大きくはなかったが,彼の数理生物学への情熱は非常に大きなものであることは充分感じ取ることができた。そして彼の思いは1983年オックスフォード大学において数理生物学センターの設立という形で花開いたのであった。私は彼のおかげで数理生物学のみならず,現象と数学の掛け橋となるモデルは広く数理科学においても重要であり,さらに,数学界へフィードバックすることにより,現代数学の新たな発展と裾野の拡大を促し,数学から社会への架け橋となるものと確信したのであった。そこで,モデリングを主要な道具として解析する数理科学に対して,現象解明をミッションとすることを強調するために「現象数理学」を提唱したのである。このように現在の私の研究そして教育のスタイルはMurray氏との出会いによって確立されたと言ってよいだろう。
我が国においてこの訳書が出版されたことは誠にタイムリーであると言って良い,なぜなら,我が国の数理生物学会の会員数は今や200名を超えた,国際的にも大きな学会になっており,会員には数理生物学を学ぶ若い人たちも多く,この分野に興味をもつ大学院,学部学生たちが着実に増えてきているからである。このことから,本書が我が国における数理生物学のさらなる発展の一助になればと願っている。